淡路島の歴史をまとめました。淡路島は、神話の時代に日本で最初の島として誕生しました。弥生時代の青銅器や鉄器の鍛冶工房が発見されています。平安時代まで御食国として栄えました。
戦国時代は淡路水軍が活躍しました。江戸時代は淡路人形浄瑠璃が人気を博しました。明治時代に徳島から兵庫に編入されました。明治時代から昭和時代にかけて紡績工場で繁栄しました。
平成時代には阪神淡路大震災を経験しました。現在、花の島として観光で注目されています。淡路島の歴史とまつわる観光スポットをまとめした。
なお、淡路島の基本情報として、場所や地理、人口や道路、歴史や文化、観光やグルメ、アクセスなどのまとめについては、「はじめての淡路島」の記事をご参照ください。
神話の時代 国生みで日本の最初に誕生した淡路島
淡路島は、日本最古の書物とされる「古事記」と「日本書紀」で最初に誕生した島とされています。日本の神話の冒頭に登場する日本の国土創生を伝えている「国生み」の巻に記載されています。
遠い遠い神代に世界が無かった頃の昔の話となります。天の高天原にいる神々が、伊弉諾尊(イザナギノミコト)と伊弉冉尊(イザナミノミコト)の男女の二神に漂っている大地を完成させて国造りを命じました。
イザナギとイザナミの二神は、天浮橋(アメノウキハシ)に立って、天の神々から授かった「天の沼矛(アメノヌボコ)」で、世界を凝り固めるために漂っている大地をかき回しました。
沼矛の先から滴り落ちた雫が自ずから凝り固まって島となりました。自凝島(オノコロ島)と呼ばれています。イザナギとイザナミの二神は、オノコロ島に天下り、夫婦の契りを結びました。
国生みの儀式を行いました。二神は次々と島を誕生させました。「大八州(オオヤシマ)」と呼ばれています。大八州(オオヤシマ)は国土を形成して日本が誕生しました。
大八州の誕生した順番は、淡路島、四国、隠岐島、九州、壱岐島、対馬、佐渡島、本州となります。淡路島は最初に誕生した島として古事記で淡道之穂之狭別島、日本書紀で淡路洲と表記されています。
淡路島には、日本の国生み神話で日本発祥の国の地である「自凝島(オノゴロジマ)」の伝承地が数多くあります。国生みの島である淡路島で数々のパワースポットは、訪れる人々を悠久の彼方へと誘います。
なお、古来より淡路島は、天皇や朝廷と結びつきが強いとされてきました。大和朝廷の時代には、淡路島は大陸文化が九州から近畿に伝来する中継点として機能していました。
古事記や日本書紀では、日本武尊(ヤマトタケル)の御子となる仲哀天皇の時代に、淡路島に天皇の直轄地として「屯倉」が置かれたとされています。大和朝廷が支配する要所でした。
南あわじ市榎列大榎列には屯倉神社跡の碑があります。周辺に「みやけ」と読む姓があります。
応神天皇の時代には、天皇妃が「淡路御原皇女」を産まれたとされています。当時は、天皇が頻繁に淡路島を訪れて猪や鹿などの狩りを楽しんでいたとされています。
大和朝廷では、淡路島で漁や塩作りをする海人を配下にして、淡路島を統治しようとした形跡があります。新しい文化は、大陸から九州、瀬戸内海を通過して、淡路島から近畿と伝来するルートでした。
淡路島は、軍事や交通の面からも重要な場所でした。妃が吉備へ向かう際には「淡路御原海人」に送らせてもいました。反正天皇は淡路宮で生まれて井戸水で産湯を浸かったとされています。
南あわじ市松帆櫟田には「産宮神社」があります。生誕地として伝わっています。
伊弉諾神宮 日本最古の神社
伊弉諾神宮(いざなぎ)は、古事記と日本書紀に創祀の記載がある日本最古の神社です。日本神話の「国生み」に登場する伊弉諾尊(イザナギノミコ)と伊弉冉尊(イザナミノミコト)の二神をお祀りしています。
日本の国生みで国土創生としいう全てのご神功を果たされた伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は、御子神である天照大御神(あわてらすおおみかみ)に日本の国家統治という大業を委譲されました。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は、日本で最初の島である淡路島で余生を過ごすために幽宮を建てられました。住居跡が御神陵となり、最古の神社として伊弉諾神宮(いざなぎ神宮)が創始されたとされています。
格式は「神宮」を名乗ることができる全国24社の1社となります。神位は一品という極位、社格は官幣大社となっており、全国でも屈指のパワースポットとして参拝者が多い神社です。
おのころ島神社 日本三大鳥居の一つ
おのころ島神社は、京都の平安神宮、広島の厳島神社と並び、日本三大鳥居の一つの高さ約22メートルの大鳥居がある神社です。国生み神話に登場する伊奘諾尊と伊弉冉尊が降り立ったとされる丘に正殿があります。
鶺鴒石は神様が夫婦の道を開かれた場所とされています。縁結びのご利益がある石として、紅白の縄を締められて特徴あるお祈りは願いが叶うと評判です南あわじ市で「おのころ島」の伝承地の一つとされています。
絵島 太古の岩肌が侵食してまだら模様が美しい小島
絵島は、淡路島北端の岩屋港にある高さ20メートルの小島です。古来から和歌を詠む月見の名所です。平家物語に登場したり、西行法師にも詠まれている景勝地で、インスタ映えスポットになっています。
約2千年以上前の砂岩が風化して侵食したまだら模様の岩肌が美しく夜間にはライトアップされています。淡路市で「オノゴロ島」の伝承地の一つとされています。岩山頂上に平清盛が建てた鳥居と社があります。
弥生時代 淡路島の沿岸部に青銅器と山間部に鉄器
弥生時代は、日本の古代国家が形成される重要な時代でした。淡路島は、古墳時代に日本の中心となる畿内と中国大陸や朝鮮半島を結ぶ瀬戸内海の東で明石海峡と鳴門海峡を残して横たわっています。
淡路島の西部の沿岸部では、弥生時代の遺跡が多数発見されています。これまで、青銅器として21個の銅鐸と14本の銅剣が発見されています。中でも最大のものは、南あわじ市で発見された松帆銅鐸となります。
淡路島で、弥生時代に青銅器文化が栄えていた痕跡をうかがわせます。先住民とされる「海の民」と呼ばれる人々が、西部の沿岸部を神聖な場所として、銅鐸や銅剣を埋納していた時代を創造させます。
淡路島の北部の山間部でも、弥生時代の遺跡が発見されています。これまで、100年以上鉄器の生産していた集落として五斗長垣内遺跡が発見されています。鍛冶工房の跡や鉄斧などが出土しています。
淡路島で、鉄器文化が栄えていた痕跡をうかがわせます。時代として邪馬台国の女王 卑弥呼が登場する直前となります。「海の民」と呼ばれる人々が鉄器の製造と輸送をしていた時代を創造させます。
平安時代 御食国として朝廷に食材を献上した淡路島
淡路島は、古墳時代から平安時代まで御食国(みけつくに)と呼ばれていました。御食国とは、日本古代から平安時代まで、皇室・朝廷に海水産物を中心とした御食料を納めていた国のことです。
御食国は、若狭国・志摩国・淡路国とされています。食材の豊富な国として認められて贄(にえ)の貢進国として、「御食つ国」または「うまし国」と称されてきました。
淡路国では、海人族が豊富な食材(海産物、獣肉、山菜、塩、水など)を献上していたとされています。日本書紀では、応神天皇をはじめ、3世紀から5世紀に天皇が淡路島で狩りをした記述があります。
古事記では、仁徳天皇の頃に「旦夕淡道嶋の寒泉を酌みて、大御水献りき」と記述されています。当時、毎日飲む水まで新鮮であると認められて、淡路島から運ばれたとされています。
当時の淡路島には、鹿や鴨、猿や猪などの獣の種類が豊富で、皇族や貴族が訪れるほどの狩猟地でした。
万葉の昔より「御食向かふ(みけむかう)」を枕詩に詠まれた淡路島には、万葉集で淡路島を詠んだ歌があります。「朝凪に 楫の音聞ゆ 御食つ国 野島の海人の 船にしあるらし 山部赤人」
朝廷からのお墨付きを頂いていた淡路島の食材は、現在においても、全国ブランドの淡路島玉ねぎ、ブランド牛のルーツとされる淡路牛、淡路米、鯛や鱧、ふぐなど豊富な食文化に受け継がれています。
淡路島の食料自給率は107パーセントを誇ります。畜産、農業、水産など淡路島の豊かな自然と温暖な気候で育まれる豊かな食材は、古来から受け継がれてきた淡路島の恵みです。
淡路島玉ねぎ
淡路島玉ねぎは、全国にその名を轟かせるブランドとなっている淡路島の特産品です。甘い、柔らかい、瑞々しいが特徴です。他の産地に比べて糖分が高く、辛み成分のピルビン酸が少ないことが判明しています。
理由は、淡路島の風土が玉ねぎ作りに適しているからです。日照時間の長い瀬戸内海の気候がマッチしています。春に収穫する「新玉ねぎ」は、白くて瑞々しくて辛みが無く大変柔らかく生で食べられます。
淡路島の鱧(ハモ)
淡路島の鱧(ハモ)は、ブランド食材です。歴史と伝統のベッピン料理といわれています。淡路島の鱧の特徴は、頭が小さく胴が太くスタイルが美しいことから「べっぴん」と呼ばれています。
古くから、京都の祇園祭、大阪の天神祭には無くてはならない魚として重宝されています。安土桃山時代から大坂へ積み出されていた逸品です。淡路島では、初夏から秋にかけてハモ料理を食べられます。
戦国時代 淡路水軍として活躍した淡路島
淡路島は、安土桃山時代から戦国時代にかけて淡路水軍と呼ばれる水軍が活躍していました。本能寺の変の後に羽柴秀吉が四国攻め(四国征伐)の水軍の拠点して、仙石秀久が本格的な石垣の洲本城が築きました。
賤ケ岳の戦いで、柴田勝家に味方する四国の長宗我部元親の防衛となりました。四国攻めで戦功をあげて讃岐高松城に国替えとなりました。賤ヶ岳の七本槍の一人となる脇坂安治が城主となりました。
豊臣秀吉の居城であった大阪城の出城として役割を担いました。淡路水軍は豊臣水軍の中核を担いました。九鬼嘉隆や加藤嘉明が、九州攻め(九州征伐)、小田原攻め(小田原征伐)、朝鮮出兵などで戦果を挙げました。
関が原の合戦では、徳川家康に寝返ったことで所領が安堵されました。脇坂安治は、伊予の大洲城に国替えとなりました。池田忠雄が城主となりました。大坂の陣のために洲本城を廃城して岩屋城と由良城を修築しました。
大坂の陣で活躍した阿波徳島城の蜂須賀至鎮の家老であった稲田氏が城主となりました。洲本城に再び本拠地として城下町を形成しました。江戸時代に淡路島は稲田氏を城代する阿波藩として歩みました。
洲本城 西日本最大級の水軍の山城
洲本城は、東西800メートル、南北600メートルに総石垣造の曲輪(くるわ)があり、西日本最大の要塞といわれた山城です。洲本市南部の標高133メートルの三熊山の山頂にあります。
本丸を取り囲む石垣と本丸へ通じる石垣の階段が壮大です。淡路水軍の拠点だったことから本丸石垣から絶景が望めます。城下町だった洲本市街地から内陸に向かう景色と紀伊水道の外洋に向かう景色は見事です。
江戸時代 淡路人形浄瑠璃で繁栄
淡路島は、江戸時代に阿波徳島藩主の蜂須賀氏が人形操りを愛好して保護したことから、淡路人形浄瑠璃で繁栄しました。淡路島に40以上の人形座が存在して商業として興行していました。
人形役者が1000人以上も存在して、淡路島のみならず阿波徳島藩をはじめ、西日本を中心に巡業していました。全国各地に人形芝居を伝えました。「文楽」を創始した植村文楽は淡路島出身です。
上方から新しい浄瑠璃や技術をいち早く取り入れて一座を組んで全国各地に巡業に出ていました。興行は、野掛け小屋という仮設の芝居小屋を建てて約1年をかけての巡業となっていました。
淡路人形浄瑠璃は、職業としたプロ集団で伝承発展してきた芸能でした。伝承演目には、中央で廃絶したもの、淡路島で改作・創作されたものがあり、演劇史の一翼を担う役割を果たしてきました。
淡路人形座の巡業先は西は九州、北は北陸から東北まで及びました。淡路人形座の広範囲な巡業活動は、人形芝居を根付かせて地方の文化に大きな影響を与えました。
淡路人形芝居の由来は諸説あります。鎌倉時代に大阪の四天王寺から神事を行う楽人が淡路島に移り、西宮の戎神社のエビスカキの人形操りが人気だっために神事を人形操りで行うようになったとされています。
室町時代に戎神社の百太夫という傀儡師が淡路島の三條村で人形芝居を教えたといわれています。1570年に、淡路人形芝居の引田淡路丞が、宮中で式三番叟を奉納して従四位下を授かったといわれています。
淡路人形座 淡路島で人形浄瑠璃を上演する劇場
淡路人形座は、兵庫県の淡路島南あわじ市の道の駅福良にあります。500年の歴史を誇る淡路島の伝統芸能である淡路人形浄瑠璃を上演する専用の劇場です。江戸時代には「文化の華」ともてはやされました。
1964年に吉田傳次郎座の道具類を引き継いで興業を始めました。悲しいまでに人情の機微を謳い、哀歓の人間模様を描く様は、世界で最も人形劇を舞台芸術として発展させたといわれています。
明治時代 庚午事変で徳島から兵庫に編入した淡路島
淡路島は、幕末に尊皇攘夷派として活動していました。洲本城主の稲田氏は勤王の志士と交流を深めていました。桂小五郎や西郷隆盛は、淡路島の洲本市にある稲田氏の私塾の学問所を訪れたこともあります。
淡路島が尊皇攘夷派であるのに対して、阿波徳島藩は佐幕派でした。淡路島と徳島が対立することになりました。その後、庚午事変をきっかけにして淡路島は、徳島から兵庫に編入されることになります。
庚午事変は、明治3年(1870年)に当時の徳島藩の洲本城下で主君の蜂須賀家の家臣たちが、筆頭家老の稲田氏の別邸や学問所などを襲撃した事件です。稲田騒動とも呼ばれています。
関が原の合戦で東軍に加勢したことや、大坂の役の活躍により、慶長20年(1615年)に蜂須賀家が徳島藩とともに淡路国を所領として与えられました。
淡路国の城代となったのが徳島藩の筆頭家老だった稲田家でした。洲本城代家老として淡路国に入国して長きに亘り淡路島を統治してきました。
江戸時代の末期になると、徳島藩の主君である蜂須賀家が佐幕派だったのに対して、淡路国の城代である家老の稲田家が尊皇攘夷派として倒幕運動を活発化させて対立することになりました。
明治維新後に徳島藩は禄制改革をしました。君主の蜂須賀家の家臣は士族としましたが、家老の稲田家の家臣は武士の身分を有さない下級の家臣である卒族とされました。
稲田家の家臣は、徳島藩に蜂須賀家の家臣と同様に士族編入を訴えましたが覆りませんでした。
今度は、明治政府に淡路国を徳島藩から独立させて稲田家を君主とする稲田藩(淡路洲本藩)を立藩して独立することを働きかけました。倒幕運動の活躍で要求は認められると踏んでいました。
徳島藩の蜂須賀家の家臣にとって、稲田家の家臣による独立運動は目に余る行為でした。一部過激派の蜂須賀家の家臣が、淡路島の洲本にあった稲田家と稲田家の家臣の屋敷を襲撃しました。
明治3年5月13日(1870年6月11日)に起こった事件は、後に庚午事変(稲田騒動)と呼ばれることになりました。
蜂須賀家も稲田家も上京で主君不在のタイミングでした。蜂須賀家の家臣ら洲本在住の武士800人、銃士100人と銃卒4個大隊、砲4門の部隊が、無抵抗の者を殺傷して火を放ちました。
淡路島で、洲本の稲田家の別邸や学問所の益習館、稲田家臣の屋敷が次々と襲撃されて焼き討ちされました。前日は、徳島の脇で一部過激派の蜂須賀家の家臣が稲田家の屋敷などが焼き討ちされました。
稲田家側の被害は、自決2人、即死15人、重傷6人、軽傷14人、投獄監獄300人余りに加えて、焼き払われた屋敷が25棟という大規模の襲撃事件となりました。
明治政府の調査して、徳島藩の蜂須賀家の一部過激派の主謀者ら10人が切腹、27人が八丈島に終身流刑、81人が禁固、謹慎となりました。日本法制史上、最後の切腹刑となっています。
知藩事の蜂須賀をはじめ、参事らも謹慎処分を受けました。徳島藩の取り潰しはありませんでしたが、庚午事変から1年後の明治4年5月に洲本を含む津名郡は、兵庫県に編入されることになりました。
明治4年7月に廃藩置県となり、11月に淡路島全島を名東県(阿波国・淡路国・讃岐国)に編入されました。明治9年8月に第2次府県統合により、名東県より淡路島が兵庫県に移管されました。
稲田家と家臣は、庚午事変を口実として北海道の静内と色丹島を兵庫県管轄として、士族の身分で移住開拓を命じられました。北海道の移住開拓は小説「お登勢」や映画『北の零年』で描かれています。
なお、洲本市寺町にある江国寺は、稲田家の菩提寺となっています。稲田家代々の墓碑や庚午事変の犠牲者を供養する招魂碑があります。
旧益習館庭園 勤王の志士たちが訪れた武家庭園
旧益習館庭園は、淡路島洲本市にある武家庭園です。日本最大級の巨岩が用いられた江戸時代の庭園様式です。徳島藩の筆頭家老であった洲本城主の稲田氏の別荘の庭園として造成して後に私塾学問所となりました。
桂小五郎や西郷隆盛、山縣有朋など勤王の志士たちも訪れた場所です。淡路島が徳島から兵庫に編入されるきっかけとなった庚午事変で建物は焼失しましたが、庭園は維新当時の面影を残しています。
明治時代から昭和時代 洲本市に日本有数の紡績工場
淡路島は、明治時代から昭和時代初期まで、日本有数の紡績工場として栄えました。同じ記事に国内企業売上高1位を誇った鐘紡が洲本市で日本有数の紡績工場を建設して稼動していたからです。
鐘紡は、1900年(明治33年)に洲本市で最初の操業を開始しました。1908年(明治41年)に第一工場は、2万平方メートルの土地を確保して洲本川沿いに移転しました。
1909年(明治42年)に第二工場、1920年(大正9年)に第三工場の操業を開始しました。第四工場と第五工場の操業も始まり、合計で約3万3000平方メートルの敷地となりました。
洲本工場の全体としては、鐘淵の全社で3番目の規模を持つ中核工場に成長しました。工場の近くには、共同宿舎や女学校なども建設されました。洲本工場は洲本市の近代化に大きく貢献しました。
第二次世界大戦で都市部の工場が損害を受けましたが洲本工場は損害を受けず設備強化されました。戦後も引き続き操業した数少ない工場の一つです。洲本工場は鐘紡の綿紡織工場として87年の歴史を持ち最長です。
しかし、日本は戦後復興で主力産業の転換期となりました。鐘淵は紡績事業から脱却を図るために紡績工場の縮小閉鎖が進みました。洲本工場は、1986年(昭和61年)に紡績工場としての役割を終えました。
洲本工場の跡地はしばらく手付かずのまま遊休地でしたが、1994年(平成6年)に洲本市新都心ゾーン整備構想を策定して、レンガ造りの建築群を歴史遺産として保存して活用することにしました。
現在、洲本市新都心地区の中核を成す公園施設となっています。「洲本市の綿産業関連遺産」の一つとして、経済産業省の近代化産業遺産に認定されています。施設は、憩いの場「洲本市民広場」、読書の場「洲本市立図書館」、テナント施設「アルチザンスクエア」、グルメの場「ごちそう館 御食国(みけつくに)」です。
旧鐘紡洲本工場の赤レンガ造りの建物が立ち並びます。洲本市が誇る近代化産業遺産として当時を偲ばせます。美しい街づくりに寄与したとして、兵庫県から「さわやか街づくり賞」を受賞しています。
風情ある建物郡は大正ロマンを漂わせます。赤レンガ造りの外壁をそのまま残しています。保存修復を繰り返して、図書館、カフェやショップ、グルメが入居する複合施設「洲本アルチザンスクエア」に再生しています。
なお、洲本市民広場にはドラクエの生みの親である堀井雄二さんの故郷のPRとしてドラゴンクエスト30周年記念碑の銅像を建立しています。ファンの間ではドラクエの聖地巡礼の記念撮影スポットで注目されています。
洲本市民広場 ドラゴンクエスト30周年記念碑の銅像
ドラクエの生みの親である堀井雄二さんの出身地として、洲本市民広場に、ドラゴンクエスト30周年記念碑が建立されています。イオン洲本店の向かい側にある洲本市民広場の大きな木の根元に佇んでいます。
主人公の勇者が装備する武器「ロトの剣」と防具「ロトの盾」、人気キャラクターのスライムが寄り添った銅像が建てられています。堀井雄二さんは、ふるさと納税などの貢献から洲本名誉市民に選ばれています。
平成時代 淡路島沖で阪神淡路大震災が発生
淡路島は、平成時代に阪神淡路大震災で大きな被害を受けました。その後、淡路花博「ジャパンフローラ2000」を契機に「震災の島」から「花の島」に変わろうと公園島憲章を謳っています。
阪神淡路大震災は、1995年(平成7年)1月17日午前5時46分に淡路島北部沖の明石海峡を震源として発生したマグニチュード7.3の地震です。淡路島を含め、兵庫県で甚大な被害を受けました。
淡路島北部の野島断層では、地震発生時に南西方向に1メートルから2メートルの横ズレを記録しました。同時に南東側が約0.5メートルから1.2メートルの隆起して逆断層となり断層面が地表に露出しています。
阪神淡路大震災を風化させず、地震の破壊力から自然の脅威を感じて、防災の意識を高めることを目的として、北淡震災記念公園が設置されました。野島断層は震源に最も近い断層とされています。
北淡震災記念公園 淡路島で野島断層を保存展示
北淡震災記念公園は、阪神淡路大震災で隆起した淡路島の震源に最も近い活断層「野島断層」を保存展示する施設です。1998年に「北淡町震災記念公園(現在の北淡震災記念公園)」としてオープンしました。
野島断層保存館では、140メートルにわたり、むき出した断層や崩れた道路などを当時のまま展示されています。震災体験館では、阪神淡路大震災と東日本大震災の震度7の地震の揺れの違いを実際に体験できます。
平成時代 淡路公園島憲章と淡路島の花の島構想
淡路島は、平成時代の2000年のミレニアムに淡路花博「ジャパンフローラ2000」を開催しました。国際園芸博覧会を開催して震災からの復興をアピールしました。入場者数は694万人を記録しました。
開催場所は、淡路島の観光拠点として整備した淡路島国営明石海峡公園と複合リゾート施設として建築家の安藤忠雄さんが設計した淡路夢舞台です。開催期間は2000年3月18日から9月17日までとなりました。
淡路花博「ジャパンフローラ2000」に先立ち2000年3月1日に淡路公園島憲章を制定しました。淡路島は、瀬戸内海の島として豊かな自然に恵まれて、国生み神話に彩られた歴史に育まれてきました。
大鳴門橋と明石海峡大橋の開通により、本州並びに四国とは陸続きとなりました。多様な文化交流の場所として、淡路島国営明石海峡公園や淡路夢舞台など淡路島国際公園都市が誕生しました。
阪神淡路大震災により甚大な被害を受けましたが、淡路花博「ジャパンフローラ2000」を機に、花文化を興して、「震災の島」から「花の島」に変わろうとしています。ミレニアムという節目に、花と緑と海と空に彩られる淡路島が、特徴を生かして「公園島」として新たなスタートを誓いました。
淡路島国営明石海峡公園
淡路島国営明石海峡公園は、東京ドーム約9個分という広大な敷地に、四季折々のお花が楽しめたり、多彩なイベントが楽しめたり、関西最大級の複合遊具が楽しめるリゾート感が溢れる公園です。
明石海峡大橋を渡って程近くにあり、淡路島で非日常体験へ誘う観光拠点となっています。安藤忠雄さんが設計した巨大リゾート施設となっている淡路夢舞台に隣接しています。
四季の花では、春にチューリップやネモフィラ、夏にアジサイやひまわり、秋にコスモスやダリアなどが咲きます。イベントでは、お子さんの長期休暇に合わせた大型イベントを開催しています。
淡路夢舞台 安藤忠雄さんが設計した複合リゾート施設
淡路夢舞台は、淡路島北東部にある建築家・安藤忠雄氏が設計した複合文化リゾート施設です。幾何学で無機質の打ちっぱなしのコンクリートの構造物が組み合わさった安藤ワールドを感じられる空間です。
宿泊施設としてウェスティンホテル淡路、カンファレンスとして国際会議場を備えています。植物園として日本最大級の温室「奇跡の星の植物館」、ライブ会場として野外劇場が設置されています。
レストランやショップをはじめ、階段状花壇が並ぶ庭園「百段苑」などがあります。各施設を円形や楕円で造形美の「展望テラス」や直線や曲線の回廊や階段でつなげています。