スポンサーリンク

洲本城 淡路島に西日本最大級の水軍の山城

洲本城は、淡路島洲本市の三熊山にある山城です。戦国時代から江戸時代にかけて淡路国の統治の拠点となりました。周囲には広大な総石垣造の曲輪が残されています。かつて、西日本最大級の水軍の山城といわれていました。洲本城は国の指定史跡、兵庫県の指定文化財に指定されています。続日本100名城に選定されています。

洲本城は、標高133メートルの三熊山の山頂にあります。当時の遺構として東西800メートル、南北600メートルに総石垣造の曲輪が残されています。熊野水軍の安宅治興氏の土の城からはじまり、脇坂安治氏の天守の増改築へと続き、江戸幕府による一国一城令に至るまで、大阪湾を防衛する水軍の城として要所でした。

洲本城の見どころは、本丸を取り囲んでいる石垣と本丸へ通じる大石段です。壮大で実に見事です。本丸石垣からは美しい景色を見ることができます。外洋に目を向けると洲本城下の町並みのみならず大浜海岸から紀淡海峡を一望できます。内陸に目を向けると淡路富士と称される先山からの美しい峰を含めて淡路島の山々が一望できます。淡路水軍の本拠地だった遺構がうかがえます。

洲本城の特徴は「登り石垣」です。山頂の上の城と山裾の下の城を結ぶように積み上げられています。日本全国でも松山城と彦根城、洲本城の3カ所しか残っていない珍しい石垣となります。天守には1928年に展望台として建てられた模擬天守閣(現在入場不可)があります。現在、日本最古の模擬天守となっています。

なお、洲本城へのアクセスですが、車の場合は、山頂部分の大手門跡脇(馬屋曲輪跡)にある無料駐車場(約20台)が本丸に近くて便利です。

2018年の11月に、洲本市が洲本城の本丸以外の緑に覆われて隠れているエリアの伐採に乗り出すことが決まりました。西日本最大級ともいわれる巨大な石垣の曲輪は、本丸以外は現在でも樹木が生い茂った密かに佇んでいます。

洲本城の基本情報

  • 住所:〒656-0023 兵庫県洲本市小路谷1272-1
  • 電話:0799-25-5820
  • 駐車場:大手門跡脇(馬屋曲輪跡)20台(無料)その他50台(無料)
  • アクセス:神戸淡路鳴門道洲本ICから車で約25分

洲本城の石垣

洲本城の見どころは、総石垣造の曲輪です。大手門、大石段、本丸、天守台と壮厳な石垣に取り囲まれています。特に、本丸を取り囲む石垣と本丸へ通じる階段が壮大で立派です。大手門を過ぎると馬屋という曲輪があります。現在は20台ほど停車できる駐車場となっています。

大手門

洲本城が大改修が行われた当時の「城絵図」には、大手口がありません。山麓にある居館から大手口に入る道も描かれていません。「馬屋」とか「月見台」とか呼ばれる大手門周辺の「勘七郭(かんしちくるわ)」は、当時から存在していたそうです。標柱には「腰曲輪」と書かれています。

当時の家臣で軍師であった佐野勘七の屋敷があったことから、「勘七郭」と名付けられた考えられています。この周辺は軍事施設だった形跡がありません。大手門は、洲本市が廃城となった江戸時代に作られたそうです。目的や理由ははっきりしておらず、「謎」とされています。

中務母義の郭

本丸東側は郭となっている広場があります。当時の脇坂安治の母や一族が居住していた中務母義の郭と推測されています。豊臣秀吉が築いた大阪城には山里郭があり母が居住していました。洲本城の中務母義の郭も、樹木が草花のある自然の趣があることから山里郭であったとされています。

日月の池、日月の井戸

本丸の南東の谷には、石垣を築いて日月の池が施されています。近くには井戸も掘られています。洲本城には、谷地から溢れる湧き水がありました。井戸の底に日月の彫り物があるとされる日月の井戸です。

山城の生命線となる水は、山麓を利用せずに湧き水を活かすために、石垣を築いて池にしていました。近くに井戸が掘られており、水は枯れる事はなく常に供給されていました。

洲本城は、枯渇することがない水源があり、山城としての存在価値は非常に高かったとされています。その昔「日は光と生命の元であり、月は欠けてもまた満月になり蘇る」といわれていました。

日月の池と日月の井戸は、洲本城の健全と城兵の用水として生命を守る願いが込められ作られていました。日常用として利用されたり、籠城用に備えられたりしていたと推測されます。

東の丸

洲本城東の最前線を防衛する石垣として、割り石の乱積みで高く築かれています。南の谷まで長く続いています。最前線の防衛として東二の門に虎口が造られています。本丸と水を守る重要な石垣と門とされています。

森林に包まれて石垣の詳細は見られないが、洲本城で最も大規模な石垣とされています。また、石垣の高さや長さからも東の丸が重要な防衛ラインであったことを窺わせています。当時、本丸と合わせて2段の土地の高さを利用した郭であったと推測されています。

洲本城で最も古い石垣は東の丸の二段の郭にあります。森林で覆い隠されていますが、東の丸の小高い丘の上にあります。石垣からは、大阪湾や紀淡海峡を見渡すことができたと推測されます。東の丸は、森林により全貌が明らかになっていませんが本丸と同レベルの石垣があります。

おそらく、東の丸からは本丸をはるかに凌ぐ紀淡海峡を見張る機能が備わっていたと考えられます。なお、石垣の隅角が鈍角となる建築法を鎬角といい、古い石垣にみられます。東の丸の高い石垣は鎬角となっています。洲本城は鎬角が数多くあり時代背景が分かります。

武者溜

東の丸の外側にある武者の集合や召集で勢ぞろいした場所です。東端に洲本城と城下町洲本を結ぶ東一の門がありました。この門が淡路水軍の出兵する門であったとされています。現在は木が覆い茂っていますが、当時は海が望めて見張りをしていたと推測されます。

西の丸

西の丸は、本丸から250メートルほど西に離れた場所にあります。石垣が割り石のままの乱積みで高さも低いです。鎬角が鈍角に築かれています。距離の長い石垣の崩れを防止するための築き方です。

残念石

西の丸への道中に洲本城で発見された唯一の残念石があります。残念石とは、石垣に使用するために切り出された巨石の中で、何らかの事情で役目を果たせなかった石のことです。残念石には矢穴が彫られており、割られる準備もされています。

なお、洲本城に用いされた石材は三熊山で採掘された砂岩や礫岩です。三熊山は和泉層群と呼ばれる地層であり、砂岩や礫岩が堆積しており城郭を造るのに適していました。

洲本城の本丸

洲本城の本丸は、高い石垣で取り囲まれています。本丸への通じる大石段は壮大で立派です。

本丸の大石段

広々としたゆったりとした大石段が天守へと導いています。しっかりした土台の見事な石造りは、当時の洲本城の威風を感じます。一段一段と上りやすい石垣からは、当時の洲本城に参内する多くの人々の賑やかさを感じることができます。洲本城の一番の見どころになるかもしれません。

本丸の高石垣

本丸周辺の石垣は高く堅牢で、東西南北と四方を取り囲んでいます。脇坂安治が増改築により高く築かれました。本丸南の石垣は、石垣の上部は積み足された跡もあり、反りも加えられています。関が原の合戦以降の増改築と推測されています。

本丸北東隅には、小天守台の鬼門除けの石垣があります。悪鬼が出入りする鬼門であると考えられえいました。鬼門除けとして石垣に屈曲を設けています。

鬼門除けの石垣の下には、洲本城の守り神として鎮守する八王子社があります。本丸南西には、天守台の隅角の石垣があります。大きな割石が左右交互に組まれた算木積みという工法です。

本丸南の虎口

大石段から本丸への直進を拒み、屈曲した内枡形を構成した城の出入口となる虎口です。巨大な門の柱を支えていた礎石が2個残されています。枡形虎口は、虎口を四角形の枡形状に築いた石垣となります。

大石段の正面の高麗門を突破して右折して櫓門に進んでも、多聞櫓で取り囲まれた枡形の中で進入を阻むことができます。本丸南の虎口は強力な防衛であり、洲本城の要所として機能していました。

搦手口と北の虎口

大天守の間近にある三熊山の北斜面の急峻な地形が天守を防衛します。現在は、搦手口といわれていますが、当時は大手口であったと推測されています。搦手口からの進入を防ぐのが北の虎口です。南の虎口と同様に、巨大な門の柱を支えられた礎石が2個残されています。

鏡石

本丸北の虎口に西面する石垣に、大きくて平らな石が積まれています。鏡石です。臣秀吉の大阪城にも、大手門、京橋口、本丸桜門の三カ所に鏡石があります。鏡は邪悪なものを退ける霊力があるとされていることから、本丸を邪悪から守る石とされています。

洲本城の天守

天守台からの眺望は実に見事です。眼下には城下町洲本の町並みが広がります。東には紀淡海峡が広がります。西には淡路富士と称される先山をはじめ淡路島の山々が広がります。

天守台

本丸台と天守台の石垣は特に堅牢で、乱積みに代わって割り石も大きく、石材を横位置に積み、穴太積みとなっています。乱積みと異なり横目地の模様が入る積み上げ方です。

関が原の合戦以降の増改築と推測されています。洲本城の中心となる本丸は、本丸の北側に大天守と小天守の天守台があります。その間をつなぎ櫓で結ばれた連結式天守と推測されています。

後に洲本から伊予に移封となった脇坂安治が築城されたとされる大洲城の絵図からも、洲本城の本丸は多聞櫓で囲われて強固だったと考えられます。天守や多聞櫓は板張りだったと考えられます。なお、1928年に建てられた模擬天守閣(現在入場不可)は現在、日本最古となります。

天守台からの絶景

天守台からは、断崖絶壁の石垣にあり180度に広がる絶景が見渡せます。眼下には城下町の遺構が残る碁盤の目のような洲本の町並みが広がります。東の外洋に目を向けると洲本城下の東端にある大浜海水浴場から紀淡海峡を一望できます。

西の内陸に目を向けると淡路富士と称される先山からの美しい峰を含めて淡路島の山々が一望できます。淡路水軍の本拠地だった遺構がうかがえます。

洲本城の神社

洲本城には、本丸の東側にある登山道を少し下ったところに八王子神社、本丸の虎口を進んだ右手に芝右衛門の社があります。

八王子神社

八王子神社は、本丸東側にある中務母義の郭から東の丸の間にある三熊山 洲本城の登山道を少し下ったところにあります。入口には大きな石鳥居があります。

八王子神社は、1526年に、安宅氏が洲本城の築城する際に勧進した神社です。炬口の戎神社とともに洲本城の鎮守の神社となっています。蛇の神様が祀られています。

石鳥居をくぐって進むと、十二支の干支が祀られている神社が並んでいます。参道を進むと石鳥居があります。石鳥居をくぐると目の前にさざれ石の巨石が見えます。

さざれ石の巨石の下は、岩窟となっており拝殿が祀られています。境内には、さざれ石の巨石がゴロゴロあります。永い歳月の経過と神聖で厳かな雰囲気が漂っています。

永い月日をかけてさざれ石となり、洲本城を御守してきた神社の境内に立つと、独得な空気を感じます。自然信仰のあったさざれ石に囲まれた空気感がパワースポットの証なのでしょう。

芝右衛門狸を祀った小さな社

本丸の南にある虎口を進んで天守を仰げる右手には、小さな社があります。「芝右衛門」と呼ばれた狸が祀られています。沢山の狸の置物が飾られています。洲本の芝右衛門は、佐渡の団三郎狸、屋島の禿狸と並んで「日本三名狸」に数えられているタヌキです。日本一の化け狸といわれています。

芝右衛門のおはなし

昔、三熊山の洲本城に、芝右衛門という愛嬌者の狸が住んでいました。1メートル80センチという大きな狸でした。お腹は大腹太鼓のようで、満月には「ポンポコ」と腹鼓を打つのでした。

芝右衛門は、人間に化けたり、木の葉のお金で買い物をしたり、いたずらもたくさんしましたが、夜道に迷った旅人の案内を引き受けるような地元の人々に愛される狸でした。

芝右衛門は、無類の芝居好きでした。芝居小屋ができた聞くと、淡路島のどこへでも芝居見物に出かけていました。芝居小屋がないときには、自ら芝居をするくらいでした。

柴右衛門の芝居好きは、それだけに納まらず、浪速(大阪)の中座で面白い芝居があると聞いたときには、人間に化けて海を渡って、木の葉のお金で芝居を楽みました。

柴右衛門は、道頓堀に足を運んでは芝居を楽しんでいました。芝居小屋では、毎日の売上金に木の葉が混じっていることから、狸か狐の仕業であると感づきました。

ある日、柴右衛門が芝居小屋に行くと犬に見つかり噛まれてしまいました。芝右衛門が亡くなってから、芝居小屋は客足がパッタリと止まりました。人気がなく客が入らなくなりました。

「芝右衛門の祟り」と噂が立ちました。芝居小屋は、芝右衛門を神様として祀りしました。すると、客足が戻り、たちまち人気の芝居小屋となったそうです。

それ以来、芝右衛門は「人気の神様」として、中村雁治郎さんをはじめ、片岡仁左衛門さん、藤山寛美さんなどたくさんの役者さんに、信仰されるようになりました。

芝右衛門の里帰りと称して、藤山寛美さんや片岡仁左衛門さんなどの寄進により洲本市に芝右衛門の社が建てられました。現在、芝右衛門の社は三熊山頂上の洲本城にあります。

芝居好きであった芝右衛門の伝説から芸能人の参拝が多いです。中座に祀られていた「柴右衛門大明神」も2000年に里帰りしました。洲本八幡神社に祀られています。

洲本城の登り石垣

洲本城には、上の城(現在の洲本城跡)と下の城(現在の淡路文化資料館)を結ぶ登り石垣があります。登り石垣は保存状態があまり良くありませんが、松山城、彦根城、洲本城と全国で3カ所しかない数少ない遺構です。

三熊山の山裾の平城から山頂の山城まで連結された石垣です。「登り石垣」といわれています。全国でも松山城、彦根城、洲本城と3つしかない数少ない遺構です。洲本城の登り石垣だけは二十数段の階段状に築かれています。西の登り石垣と東の登り石垣の2条があります。西の登り石垣は天守から山麓の居館まで、東の登り石垣は東の丸から山麓の居館まで結ばれています。

登り石垣は、朝鮮出兵で日本軍が海岸から丘陵の本丸を結んだ城郭を防衛するための石垣です。脇坂安治が洲本城に採用しました。山城と平城の補給路を絶たれないための防御や、平城から山城へ移動する経路の確保として考えられています。急勾配な山の斜面にあり、石垣に崩落もあり近寄って見学することはできません。

洲本城の石垣を覆う樹木の伐採事業

洲本市は、2018年の11月に洲本城の本丸以外の緑に覆われて石垣が隠れているエリアの樹木の伐採に乗り出すことが決定しました。西日本最大級ともいわれる巨大な石垣の曲輪は、本丸以外は現在で樹木が生い茂り密かに佇んでいます。いよいよ三熊山の山頂一帯に広がる総石垣造の曲輪の全貌が日の目を帯びることになります。

洲本城周辺の伐採計画の策定については、洲本市が実施に向けて2017年に調査検討会を設置していました。自然を保護しながら適正に伐採を行うことでまとまりました。今後の洲本城の管理のあり方についても環境省や兵庫県がオブザーバーに参加して議論をしてきました。

現在、洲本市が伐採する範囲や樹種などの計画を策定中となっています。年内に環境省と協議して許可を得られれば年明けにも伐採作業に着手することになります。洲本市は、2018年度の補正予算で300万円を計上しています。まずは、洲本城本丸の隣にある東の丸の周辺約2千平方メートルのエリアの作業を開始します。今後、数年かけて全体の伐採を完了するそうです。

その後も約5年ごとに伐採を行い景観を維持する計画です。天空の城といわれる竹田城に匹敵するといわれてきた洲本城ですが、地元住民でさえ、どれほど巨大な石垣造となるのか知りません。これから楽しみですね。

洲本城の下の城(洲本市立淡路文化史料館)

洲本城の下の城は、三熊山の山裾にありました。大浜海水浴場から洲本市街地に向かう道路沿いに当時の遺構として、石垣と堀が残されています。蜂須賀氏が淡路国を所領していた当時に、拠点を由良から洲本に移した1630年代以降の年代と考えられています。

洲本城は、三熊山の山頂にある山城を上の城と三熊山の山裾にある平城を下の城で構成されていました。桃山時代に上の城と下の城を一体として築城されました。現在の下の城の敷地内には、淡路文化資料館、洲本裁判所、洲本税務署などがあります。

洲本城が続日本100名城に選定

「続日本100名城」は、日本城郭協会が設立50周年の記念事業として、2017年4月6日の(城の日)に、選定した名城の一覧です。洲本城も選定されました。2018年4月6日(金)から「続日本100名城スタンプラリー」が開催されています。

なお、洲本城のスタンプの設置場所は、洲本城(上の城)ではなく、山裾にある下の城(洲本市立淡路文化史料館)となります。入口の受付付近にスタンプが設置されています。

洲本市立淡路文化史料館の基本情報

  • 住所:〒656-0024 兵庫県洲本市山手1-1-27
  • 電話:0799-24-3331
  • 入館料金:大人400円、高校・大学生250円、小中学生100円
  • アクセス:神戸淡路鳴門道洲本ICから車で約25分

洲本城の歴史

洲本城の歴史は、室町時代末期に、熊野水軍の頭領であった安宅治興が三熊山に土の城を築いたのが始まりです。羽柴秀吉の四国攻めの拠点となりました。賤ヶ岳の七本槍の一人の脇坂安治が石垣と天守閣を築城しました。水軍の主力として九州攻めや小田原攻めで活躍しました。朝鮮出兵で倭城築城の経験から登り石垣を造りました。

大坂の陣の功績から阿波藩の徳島城主の蜂須賀至鎮に属することになりました。洲本城代として筆頭家老の稲田氏が入城しました。江戸時代初期に山城は不要とされて使用されなくなりました。

安宅治興が築城 紀州熊野水軍の頭領

三熊山に初めて城が築かれたのは室町時代の末、1526年(大永6年)とされています。三好氏の重臣であり紀州熊野水軍の頭領であった安宅治興が土塁や柵などで築城したとされています。当時の洲本城は「石垣の城」でなく土塁や柵等で築いた「土の城」だったと考えられています。淡路島に8カ所あった支城の1つでした。

安宅治興の跡継ぎは、三好長慶の弟で養子となった冬康でした。安宅冬康は、淡路水軍を率いて、阿波国の三好実休と讃岐国の十河一存の兄弟で、兄であった三好長慶を助けていましたが、冬康は長慶に殺害されます。

長男の信康、二男の清康へと城主が引き継がれました。安宅信康は織田信長に臣従していましたが、三好家の衰退とともに、後を継いだ安宅清康は毛利輝元に味方して、織田信長と敵対しました。

1581年(天正9年)に織田信長は淡路国攻め(淡路国討伐)を行いました。安宅信康は、総大将だった羽柴秀吉(豊臣秀吉)に降伏しました。戦功をあげた仙石秀久に洲本城が与えられました。追放された安宅信康はすぐに病死してしまい安宅氏が滅亡しました。

羽柴秀吉の四国攻めの前線基地

1582年(天正51年)に本能寺の変の以降、羽柴秀吉の命により、洲本城の城主となった仙石秀久は淡路島の豪族を次々と配下にします。四国攻め(四国征伐)の前線基地に水軍の拠点城として石垣の城が築かれました。

賤ケ岳の戦いでは、柴田勝家に味方していた長宗我部元親の抑えとなり、小豆島を占拠しました。戦功により仙石秀久は5万石で淡路国を与えられました。洲本城を拠点とし淡路水軍の小西行長らを統率しました。

仙石秀久は四国攻めでも戦功をあげて讃岐22万石となり、讃岐高松城に移封しました。

脇坂安治の改築で大阪城の出城に

1585年(天正13年)に羽柴秀吉の配下で「賤ヶ岳の七本槍の一人」であった脇坂安治が3万石で洲本城の城主となりました。1609年(慶長14年)までの24年間にわたり洲本城の天守の造営や石垣の改修に尽力しました。

脇坂安治による洲本城の改修は、現在の洲本城の姿に色濃く反映されています。当時は、大阪城や大阪湾、紀淡海峡の防衛するために、豊臣秀吉の居城であった大阪城の出城としての役割を担いました。

淡路水軍で九州攻めや小田原攻め

脇坂安治は淡路水軍を吸収して編成して洲本城を淡路水軍の本拠地として豊臣水軍の中核を形成しました。

当時の豊臣水軍は、脇坂安治をはじめ、九鬼嘉隆や加藤嘉明などの武将たちの指揮により大変強力だったとされています。九州攻め(九州征伐)、小田原攻め(小田原征伐)、朝鮮出兵などに戦果を挙げました。

登り石垣は松山城と彦根城と洲本城のみ

脇坂安治は、三熊山の山頂にある山城と山裾にある平城を連絡する石垣を築造しました。石垣は「登り石垣」といわれています。洲本城には山頂から山裾を結ぶ2列の登り石垣があります。

脇坂安治が、朝鮮出兵において倭城築城の経験などに影響を受けたとされます。松山城、彦根城、洲本城など数少ない遺構といわれています。登り石垣の目的は、山城と平城の補給路を絶たれないための防御や、平城から山城へ移動する経路の確保として考えられています。

脇坂安治が天守閣を大改築 関が原で寝返り

1600年(慶長5年)に関が原の合戦がありました。脇坂安治は当初石田三成に協力していたが、合戦が始まると小早川秀秋らと徳川家康に寝返り、所領を安堵されました。

その結果、洲本城の本丸周辺を大改築することができました。洲本城は、脇坂安治により改築や改修が施されました。天守閣は連結式の天守に改築されたといわれています。

連結式天守とは、大天守と小天守がつなぎ櫓で結ばれている天守のことです。洲本城の本丸にある天守台は、大天守台にL字型の小天守台があったことから、連結式天守であったことが推測されています。また、当時の年代からは天守閣は望楼型であったと推測されています。

洲本城の廃城と由良城の修築

その後、1609年(慶長14年)に脇坂安治が5万3500石で伊予の大洲へ移封となりました。代わりに姫路城の城主であった池田輝政の三男忠雄が洲本城に入封しました。忠雄は大阪城包囲のために洲本城を廃城して岩屋城と由良城を修築しました。その後、1615年(慶長20年)に大坂の陣の功により阿波徳島城主であった蜂須賀至鎮の家老であった稲田氏が由良城に入封しました。

稲田氏が下の城を築城 由良引け

稲田氏は、1631年から1635年までに再び由良城を廃城して洲本城に再び本拠を移転して城下町を形成しました。この「由良引け」により洲本城が淡路政庁と定められて明治維新まで稲田氏が洲本城代を務めることになりました。1642年に山城は不要とされて洲本城下に淡路政庁を移転しました。

西日本最大級の水軍の山城

明治維新により洲本城は廃城となりました。現在の鉄筋コンクリート製の模擬天守は1928年(昭和3年)に昭和天皇御大典記念として建造されました。1999年(平成11年)に洲本城の本丸を含む山上の史跡は国の史跡に指定されました。城跡の規模は、東西800m、南北600mの範囲におよび総石垣造の曲輪(くるわ)があることから西日本最大級の水軍の山城といわれています。

洲本城のアクセス

洲本城へのアクセスとして、自動車で本丸近くの無料駐車場に停車する手段、自動車で大浜海水浴場の無料駐車場に停車して徒歩で三熊山の洲本城に登る手段、高速バスで洲本高速バスセンターに到着して徒歩で三熊山の洲本城に登る手段の3つが考えられます。

自動車の場合

自動車の場合は、洲本インターチェンジから車で約25分程度で、本丸近くの大手門跡脇(馬屋曲輪跡)の無料駐車場(約20台)に到着します。そこから徒歩約5分程度で洲本城跡の本丸に到着します。なお、大手門跡脇(馬屋曲輪跡)の駐車場の一段下にも無料駐車場(約20台)があります。

洲本城の住所と電話

  • 住所:〒656-0023 兵庫県洲本市小路谷1272-1
  • 電話:0799-25-5820

徒歩の場合

徒歩の場合は、大浜海水浴場の無料駐車場に停車して三熊山を登山することになります。洲本インターチェンジから車で約20分程度で、大浜海水浴場(大浜公園)の無料駐車場(約100台)に到着します。駐車場の入口は、松林が見えてから一番奥にあります。駐車場からは、道を挟んで向かいにある「ホテル夢海遊」の隣にある三熊山(洲本城)の登山口から登ります。徒歩約20分程度で洲本城の本丸に到着します。

大浜海水浴場(大浜公園)の住所と電話

  • 住所:〒656-0022 兵庫県洲本市海岸通1丁目
  • 電話:0799-22-8372

高速バスの場合

高速バスは、神戸三ノ宮駅、高速舞子駅、学園都市駅、新神戸駅、大阪阪急3番街、なんば駅から発車しています。洲本高速バスセンターで降車します。洲本高速バスセンターに到着すると山の上にある城が洲本城となります。そちらに向かって大通りとなる海岸通りを歩きます。徒歩5分で大浜海水浴場(大浜公園)に到着します。そのまま松林に沿って歩くと「ホテル夢海遊」に到着します。本館の隣にある三熊山(洲本城)の登山口から登ります。徒歩約20分程度で洲本城の本丸に到着します。

淡路交通バス

  • 高速舞子駅ー洲本BC(所要時間60分、乗車料金1550円)
  • 学園都市駅ー洲本BC(所要時間75分、乗車料金1600円)
  • 神戸三宮駅ー洲本BC(所要時間85分、乗車料金1850円)
  • 大阪 梅田阪急3番街ー洲本BC(所要時間120分、乗車料金2350円)

阪急高速バス

  • 大阪 梅田阪急3番街ー洲本BC(所要時間120分、乗車料金2350円)

本四海峡バス

  • 高速舞子駅ー洲本BC(所要時間60分、乗車料金1550円)
  • 三宮BT-洲本BC(所要時間85分、乗車料金1850円)
  • 新神戸駅ー洲本BC(所要時間95分、乗車料金1850円)
  • なんば駅(OCAT)ー洲本BC(所要時間120分、乗車料金2350円)

洲本城のイベント

洲本城で開催されるイベントとして、淡路島で桜の名所となることから毎年春に「洲本城桜まつり」、洲本城の歴史を振り返り魅力を発信するために毎年秋に「洲本城まつり」が開催されます。

洲本城桜まつり

毎年春になると洲本城は、本丸周辺が桜の薄紅色で覆われて風情があります。本丸を取り囲む立派な石垣の上にも、本丸へ通じる壮大な石垣の周辺にも桜が咲き、風情を感じさせます。山城と山桜の組み合わせは歴史ロマンが漂い日本独特の美を感じさせます。本丸からの景色は素晴らしいです。4月上旬に「洲本城さくらまつり」が開催されます。桜餅の振る舞い、花のプレゼントの他、ウクレレや和太鼓など音楽ステージ、お笑いのライブ、バルーンパフォーマンス、クイズラリーやガイドツアーなどが行われています。

洲本城まつり

洲本城まつりは、毎年11月に三熊山の洲本城跡で開催されているまつりです。今年で10回目を迎えます。国史跡である洲本城跡の歴史を振り返り、洲本城跡の魅力を伝えて、城下町である洲本市の活性化するためのイベントです。洲本城本丸の横にある芝生広場がメイン会場となっています。恒例行事は武士の格好をして歩く「武者行列」です。この他、謎解きクイズラリーやチャンバラ合戦、スイーツの振る舞いや松帆銅鐸バッチ作りと様々がイベントが行われるとともに飲食の出店も登場します。

淡路島観光スポットまとめ

淡路島は、兵庫県にある瀬戸内海で最大の島で観光地として人気です。古いの歴史と豊かな自然と美味しいグルメがおすすめです。世界一の明石海峡大橋と世界一の鳴門海峡の渦潮の絶景が眺められます。

淡路島バーガーと淡路島牛丼、淡路島生しらす丼がご当地グルメとして人気です。四季折々の花が美しく咲き誇る淡路島国営明石海峡公園とあわじ花さじきが人気です。コアラがいるイングランドの丘があります。

日本最古の神社である伊弉諾神宮と日本三大鳥居のおのころ島神社があります。最近は、キティちゃんレストラン「ハローキティスマイル」、クレヨンしんちゃんアスレチック「アドベンチャーパーク」が注目です。

淡路島観光スポットまとめ
淡路島の観光スポットをまとめました。淡路島は、兵庫県の瀬戸内海で最大の島で人気の観光地です。淡路島には、海に囲まれて緑が豊かで自然を満喫できる観光スポット、淡路島玉ねぎをはじめ、淡路牛に鱧に鯛と新鮮な食材を堪能できるグルメスポット、国生み神...
洲本市
スポンサーリンク
記事をシェアする
あわじしま観光ナビをフォローする
あわじしま観光ナビ
error:Content is protected !!