洲本城の歴史

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洲本城の歴史をまとめました。洲本城は、室町時代に熊野水軍の頭領であった安宅治興により築城されました。戦国時代には、織田信長や羽柴秀吉の四国攻めの拠点となりました。

約24年の間、城主を務めた脇坂安治により石垣と天守閣が改築されました。淡路水軍として九州攻めや小田原攻めで活躍しました。朝鮮出兵で倭城築城の経験から登り石垣が造られました。

大坂の陣により阿波藩で徳島城主の蜂須賀家の所領となりました。洲本城代として筆頭家老の稲田家が城主となりました。江戸時代に洲本城の本丸が使用されなくなりました。明治時代に廃城となりました。

昭和時代には昭和天皇御大典記念として本丸に模擬天守が建造されました。平成時代から樹木の伐採事業が行われています。

なお、洲本城は、淡路島洲本市の三熊山にある山城です。東西800メートル、南北600メートルに総石垣造の郭があります。かつて西日本最大級の水軍の山城といわれていました。

本丸の石垣と大石段が堅牢で壮大です。淡路水軍の拠点だったことから、天守からの眺めは絶景です。紀淡海峡の大海原と城下町洲本の街並み、内陸の山々と180度の大パノラマを楽しめます。

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室町時代 安宅治興が築城

室町時代の末期となる1500年初頭(永正年間)に、紀州熊野水軍の安宅一族が、現在の淡路島洲本市の由良地区と炬口地区に進出してきました。

1526年(大永6年)に、三熊山の山頂に洲本城が築かれました。築城したのは、摂津河内で勢力拡大していた三好氏の重臣であり紀州熊野水軍の頭領であった安宅治興でした。

当時の洲本城は、石積みの「石垣の城」でなく土塁や柵などで築かれた「土の城」だったと考えられています。淡路島に8カ所あった支城の1つでした。大阪湾付近の要として築城されました。

1536年(天文5年)に、阿波国の三好元長の三男であった冬康が淡路国の安宅治興の養子として跡継ぎとなりました。安宅冬康は、淡路水軍を率いて、三好氏の上京作戦の布石として活躍します。

1554年(天文23年)に、長男の三好長慶が室町幕府の摂津国の守護代、次男の義賢(三好実休)が阿波国、三男の冬康(安宅冬康)、四男の一存(十河一存)が讃岐国の体制を構築します。

1560年(永禄3年)に、天下制圧の打ち合わせとして第2回洲本会議が開催された記録が残っています。

1564年(永録7年)に、安宅冬康が現在の大阪府大東市と四條畷市にあった飯盛城(河内国)で実兄の三好長慶に暗殺されます。洲本城は、安宅冬康の長男の信康、二男の清康に城主が引き継がれました。

長男の安宅信康は、織田信長に臣従していました。後を継いだ次男の安宅清康は、三好家の衰退とともに、毛利輝元に味方して、織田信長と敵対しました。

1581年(天正9年)に、織田信長は淡路国攻め(淡路国討伐)を行いました。安宅信康は、総大将だった羽柴秀吉(豊臣秀吉)に降伏しました。安宅信康は、安土城に織田信長を訪れます。帰国後に病死しました。淡路国の安宅氏が滅亡しました。

戦国時代 羽柴秀吉の四国攻めの拠点

1582年(天正10年)に、四国の長宗我部氏が畿内への進出を画策します。淡路国の土着の豪族(水軍)に洲本城を占領させます。本能寺の変が起こります。

中国大返しで、山崎の合戦に向かっていた羽柴秀吉は、配下の仙石秀久を洲本に送り込み洲本城を償還させます。

洲本城の城主となった仙石秀久は、淡路島の土着の豪族(水軍)を次々と配下にします。洲本城には、四国攻め(四国征伐)の前線基地として石垣の城に修築されました。淡路水軍を整備して強化しました。

賤ケ岳の戦いでは、柴田勝家に味方していた長宗我部元親の抑えとなりました。戦功により仙石秀久は5万石で淡路国を与えられました。洲本城を拠点とし淡路水軍の小西行長らを統率しました。

四国攻めでは、宇喜多秀家らと黒田官兵衛が率いる先鋒隊に加わって活躍しました。戦功により讃岐13万石となり、讃岐高松城に移封しました。

脇坂安治が天守や石垣の改築

1585年(天正13年)に、脇坂安治が3万石で洲本城の城主となりました。羽柴秀吉の配下の家臣で、賤ヶ岳の戦いで福島正則や加藤清正らと共に活躍して、賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられました。

1609年(慶長14年)までの24年間にわたり洲本城の天守の造営や石垣の改修に尽力しました。

脇坂安治による洲本城の改修は、現在の洲本城の姿に色濃く反映されています。当時は、大阪城や大阪湾、紀淡海峡の防衛するために、豊臣秀吉の居城であった大阪城の出城としての役割を担いました。

淡路水軍で九州攻めや小田原攻め

脇坂安治は淡路水軍を吸収して編成して洲本城を淡路水軍の本拠地として豊臣水軍の中核を形成しました。

当時の豊臣水軍は、脇坂安治をはじめ、九鬼嘉隆や加藤嘉明などの武将たちの指揮により大変強力だったとされています。九州攻め(九州征伐)、小田原攻め(小田原征伐)、朝鮮出兵などに戦果を挙げました。

脇坂安治は、三熊山の山頂にある山城と山裾にある平城を連絡する石垣を築造しました。石垣は「登り石垣」といわれています。洲本城には山頂から山裾を結ぶ2列の登り石垣があります。

脇坂安治が、朝鮮出兵において倭城築城の経験などに影響を受けたとされます。松山城、彦根城、洲本城など数少ない遺構といわれています。登り石垣の目的は、山城と平城の補給路を絶たれないための防御や、平城から山城へ移動する経路の確保として考えられています。

関が原の戦いで寝返り

1600年(慶長5年)に関が原の合戦がありました。脇坂安治は当初石田三成に協力していたが、合戦が始まると小早川秀秋らと徳川家康に寝返り、所領を安堵されました。

その結果、洲本城の本丸周辺を大改築することができました。洲本城は、脇坂安治により改築や改修が施されました。天守閣は連結式の天守に改築されたといわれています。

連結式天守とは、大天守と小天守がつなぎ櫓で結ばれている天守のことです。洲本城の本丸にある天守台は、大天守台にL字型の小天守台があったことから、連結式天守であったことが推測されています。また、当時の年代からは天守閣は望楼型であったと推測されています。

1609年(慶長14年)に、脇坂安治が5万3500石で伊予の大洲へ移封となりました。代わりに姫路城の城主であった池田輝政の三男忠雄が洲本城に入封しました。忠雄は大阪城包囲のために洲本城を廃城して岩屋城と由良城を修築しました。

1615年(慶長20年)に、大坂の陣の功により阿波徳島城主であった蜂須賀至鎮の家老であった稲田氏が由良城に入封しました。

江戸時代 稲田家が城下町を形成

稲田氏は、1631年から1635年までに再び由良城を廃城して洲本城に再び本拠を移転して城下町を形成しました。この「由良引け」により洲本城が淡路政庁と定められて明治維新まで稲田氏が洲本城代を務めることになりました。1642年に山城は不要とされて洲本城下に淡路政庁を移転しました。

明治時代と昭和時代 廃城と模擬天守

明治維新により洲本城は廃城となりました。現在の鉄筋コンクリート製の模擬天守は1928年(昭和3年)に昭和天皇御大典記念として建造されました。

1999年(平成11年)に洲本城の本丸を含む山上の史跡は国の史跡に指定されました。城跡の規模は、東西800メートル、南北600メートルの範囲におよび総石垣造の曲輪(くるわ)があることから西日本最大級の水軍の山城といわれています。

平成時代 伐採事業

洲本市は、2018年の11月に洲本城の本丸以外の緑に覆われて石垣が隠れているエリアの樹木の伐採に乗り出すことが決定しました。西日本最大級ともいわれる巨大な石垣の曲輪は、本丸以外は現在で樹木が生い茂り密かに佇んでいます。いよいよ三熊山の山頂一帯に広がる総石垣造の曲輪の全貌が日の目を帯びることになります。

洲本城周辺の伐採計画の策定については、洲本市が実施に向けて2017年に調査検討会を設置していました。自然を保護しながら適正に伐採を行うことでまとまりました。今後の洲本城の管理のあり方についても環境省や兵庫県がオブザーバーに参加して議論をしてきました。

現在、洲本市が伐採する範囲や樹種などの計画を策定中となっています。年内に環境省と協議して許可を得られれば年明けにも伐採作業に着手することになります。洲本市は、2018年度の補正予算で300万円を計上しています。まずは、洲本城本丸の隣にある東の丸の周辺約2千平方メートルのエリアの作業を開始します。今後、数年かけて全体の伐採を完了するそうです。

その後も約5年ごとに伐採を行い景観を維持する計画です。天空の城といわれる竹田城に匹敵するといわれてきた洲本城ですが、地元住民でさえ、どれほど巨大な石垣造となるのか知りません。これから楽しみですね。

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